学歴があって良かったこと

2022年6月30日 Vol.946

つばめ学院は埼玉県和光市にある「生徒を元気にする塾」です。

塾長の関口です。

今日は学歴の話をします。

学歴ってどうなんですかね。ないとだめ?あっても意味ない?

塾の仕事をしていると、当然ながら「学歴」に関する切実な疑問を生徒から受けます。

実は多くの子が「学歴があると何が良いのか」を分かっていません。だからこそ迷いが出るのだと思います。

今日のブログでは私が見てきた「学歴」についてお伝えします。

いわゆる「いい学校に進学する」ことのメリットがリアルに伝われば良いなと思っています。

まずは自分の話

このブログでは自分の過去を書くことがほとんどなかったので、今日は貴重な機会として書いてみます。

簡単な学歴としては、(都内公立小・中)→都立小石川高校→東京理科大学→東京工業大学大学院

というのが私の学歴の流れです。

最終学歴が国立大学の大学院修士課程修了ということなので、「学歴」という点のみで言うならば、かなり「良い」方になると思います。(学歴と人間的価値につながりがないことは私自身が痛感していることろです)

あと付け加えると、私の両親は2人とも中卒なんです。「高校」に行ったことがない両親の間に生まれた一人息子が私です。

何が言いたいかというと、私は「学歴」というレールの中で自分の周りの環境が次々と変わる経験をしてきました。どれが良い悪いというものではなく、しかしまさに「別世界」とも言える違いです。

その違いについては、実は私のような人間でないと書けないのではないかと思ったりしています。

圧倒的な「友達」の違い

進学するにつれて学校が変わるのですが、そこで変わるのが「友達」です。

どの時代の友達であっても、いまでも仲良くさせてもらう友達が何人もいます。ただ、その友人達の考えは全く異なります。

小中学校時代の「地元」の友達というのは、昔の「ケンカの序列」の雰囲気を確実に持っている気がします。みんな自分の仕事や家庭を持ちながら立派に働いている仲間です。

この時代の仲間は私の「勉強」に一目を置いてくれていますが、やはり大人になっても「一緒にバカやる」のはこの時の仲間です。

高校時代の友人は「都立高校」という場の雰囲気もあるかもしれませんが、「自分なり」の人生を大切にした奴が多い気がします。非常に多様な仕事や生き方をしています。いつも「いろんな生き方があるんだな」と思わせてくれます。

大学・大学院の友人達は、私のような平民育ちからすると「一流」といえる人ばかりの気がします。誰もが知っている会社に入り、年齢的にも各企業の中核を担う人材です。

大学院時代の友人には本当に多くの刺激をもらいました。

普通に話しているだけでも感じることは、「自分が将来、国の行く末を担うことになる」という事をぼんやりと意識しているんです。親が大会社の役員や官僚であるならば、良好な親子関係で育った子どもが「自分も親と同じような責任を負うんだろうな」と感じるのはごく自然なことです。

私は大企業に勤めたことがないのですが、彼らから感じる「自分たちが日本の経済を支えている」というなんとも言えない自負心のようなものは、生きる上での大きな活力になるのではないでしょうか。

私は小中学校の頃に、「世の中のことは、どっかの偉い人が知らないところで決めるものだ」と漠然と思っていました。年齢的なものもありますが。

学歴のレールを進むうえで、少しずつですが、その「どっかの偉い人になる人」に出会うようになりました。それが私と同世代で、そして同じように遊び・ふざけ・騒ぐ奴らでした。

もし私が「中卒の息子」として、学歴とは無縁の人生を歩んできたら、このような出会いはまずなかったでしょう。

いままで想像もしなかった「友人」と出会うたびに、自分の心が震えます。

「じゃあ、俺はどう生きるんだ」

そんな問いを突きつけられる友人関係を持てる魅力が、学歴にはあるように思います。

みんな良い奴

いつも生徒たちの誤解を正していることがあります。

「偏差値の高い学校はみんな真面目なガリ勉ばっか」という誤解です。

そんなわけなないんです。

どんな学校に行ったって、陽気な子は陽気だし、おとなしい子はおとなしい。運動好きもいれば、アニメ好きもいます。そして、どんな環境に入ったとしても、必ず自分のまわりには「自分と似た」友人が集まります。当たり前のことです。

どの時代の友人に対しても私が言えるのは、やはり私が「面白い」と思ったことを「面白い」と思える人でないと仲良くはなれません。それは日頃の会話や「ノリ」のようなものです。

自分と似た「ノリ」の奴がが周りに集まる。これはどんな人がどんな環境に行ったとしてもいえる真理だと思っています。

「偏差値の高い学校」であってもいろいろな人間がいると書きました。しかし、そこに共通するものもあるんです。

それは「圧倒的に努力してきた経験とその喜び」を知っていることです。どんなにふざけた奴であっても、その場にいる以上は必ず努力をしてきた経験を持ちます。だからこそ、そういう人間は他人の努力に敬意をはらい、全力で友人の努力を応援することができます。

「努力してきた経験」がない人は、どうしても「他人の頑張り」を素直に応援できな事がありますが、「偏差値の高い学校」に努力して入った子にそのような子はほとんどいません。

最後に大学院の友人から言われた言葉をご紹介して終わります。

彼は世界中の多くの人が知る一流企業に就職し、明らかな出世頭として仕事を頑張っています。私が大学院で出会った時の印象は、「あ、なんか笑いのセンスが近くて面白そうな奴がいる」という程度でした。

その彼が私に数年前に面と向かって「お前はスゲーな」と言ってくれたことがあります。

「おいおい、世界に名を馳せる○○の△△さんが、埼玉のすみっこで塾やってる友達をつかまえて何をいうんだか」

「あのな、俺は組織の看板背負って仕事してんだよ。それは素晴らしいことだし、俺だってそれは誇りに思う。だから今まで俺はやってこれた。でもお前は違う。自分で看板を作って、自分の地元でゼロから信頼を築きあげてきた。それは俺にはできないことだ。」

本当に涙が出るほど嬉しかったのです。それは偉い奴に言われたからではありません。本当にその大変さを分かっている奴が言ってくれたからです。

生徒たちに伝えたいことがあるんです。

「学歴」というのは、自分の価値を示したり、所得の高さを保証したりするかもしれない。でも、それは時代とともに役割が薄れてきています。もっと大切なことは、「他人の努力を尊重し、心から応援できる友人」をたくさん持つことができる環境なのではないでしょうか。

他人の成功や頑張りを心から応援するために必要なことは、何より自分の人生に対する満足と誇りです。

それを兼ね備えた人間の多く集まる場所に行き、そこで大きな刺激と出会いを得て大きく飛躍する子を私はたくさん送り出したいのです。

最後まで読んで頂いてありがとうございます。

One thought on “学歴があって良かったこと

  1. 仲山一夫 より:

    twitterから来ました。
    すばらしい!
    >> 「学歴」というのは時代とともに役割が薄れてきています。

    「学歴」って就職した途端一瞬で役割終了乙ですね。

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